Day 27, Sun, Oświęcim「答えをえる場所ではなく、考える場所」
先に今日の自分なりの結論を言っておきます。
1、システムは便利で効率のいいものですが、使い方/使われかたによってとても冷酷なものとなりうるということ。
2、対話し続けることの難しさと大切さ。
おはようございます。
今日はアウシュビッツ=ビルケナウ強制収容所へ見学にいきます。
SHOさんと待ち合わせをして、バス乗り場までレッツゴー。
アウシュビッツはOświęcimという街にあります。
アウシュビッツまでは電車かバスの交通手段があり、多分バスの方が便利。
収容所の前まで行ってくれる為。時間は一緒ぐらいかな、1時間40分ぐらい。
電車は駅から15分ぐらい歩いたらあるらしい。
バス乗り場に10分前に到着。
もうみなさんお並びになられてて座れるかしら。。
ギリギリ一番後ろに座れた!
あとからきた人達は、、まさかの立ち乗り。
1時間40分もキツイでしょ絶対。。
座れて良かった。
車窓からはこんな景色が。
北海道やな。
この季節の北海道はいったことないけど。
SHOさんのバックパッカーらしからぬお金使いに驚愕し、その後1時間ほど寝て、
到着!!
クラコフまで帰るバスの時間。
14zl=450円は安いよなー。ほんまポーランドは物価が安い。
まわりに貼られてるシールはガイドツアーの参加者が付けてるシールだと思う。
何か絵になるよなー
目の前にはもうアウシュヴィッツ=ビルケナウ強制収容所が。
ちなみにアウシュビッツという名前は、ここの地名Oświęcimをドイツ語読みしたときの発音から、こういわれるようになったんだと。
外観。
エントランス。
簡単にいうと、アウシュヴィッツ=ビルケナウ強制収容所はその名の通り、アウシュヴィッツという場所とビルケナウという場所に1つづつの(大きなくくりとして)、2つがあります。
この季節、アウシュビッツの方は開館から午後3時までは公式ガイドなしでは入館できない。
ビルケナウの方は出入り自由。
ツアーに参加する人達。
ヨーロピーアンが多いね、当たり前か。
ここで本日のガイド、中谷さんを待つ。
今回は21人が参加。
ワルシャワの日本人学校で教師をされてる方々やベルリン在住のご夫婦、学生などいろいろ。
料金は人数によって変動するらしい。
まつこと数分、中谷さんご登場。
中谷さんは、アウシュヴィッツ=ビルケナウ博物館公認ガイド試験の難関を突破した唯一の日本人らしい。
失礼ながら、思ってたよりもお若い。なんか、見た目ではなく所作がカッコイイ中年男性の雰囲気。
とても知的な雰囲気をお持ちです。
中谷さんのwiki ”http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%AD%E8%B0%B7%E5%89%9B”
中谷 剛(なかたに たけし、1966年 - )は、兵庫県神戸市生まれで、ポーランド国立オシフィエンチム博物館(国立アウシュヴィッツ博物館)唯一の外国人公式ガイド、通訳・翻訳家(日本語・ポーランド語)。神戸市生まれで、その後、親の転勤で栃木県足利市で子ども時代を過ごす。学生時代の1980年、初めてポーランドに旅行。3年間の会社勤めを経て、退職。再びポーランドに赴き、1991年よりポーランドに移住、1997年オシフィエンチム博物館公式ガイド資格を取得。2008年現在、ポーランド共和国オシフィエンチム市在住。
公式サイト
http://www.e.okayama-u.ac.jp/~taguchi/hito/nakatani.htm
メールに直接連絡して予約するのがマナー。
中谷さんから説明を受け、エントランスへ。
今回は10人を超えるのでヘッドホンを装着しなければいけない。
理由は人数が多いとガイドの声がどうしても大きくなってしまう為。
受信機。
めっちゃ人が多い。
中谷さんの話しだと、年々、来館者数が過去最高を更新してるんだって。
いざ、入り口へ。
有名な入り口。
”ARBEIT MACHT FREI”
「働けば自由になる」とのドイツ語。そもそもは19世紀後半のドイツ人作家が用いた小説のタイトルとwikiには書いてあった。
Bの文字がひっくり返ってるのは収容された人達のせめてもの抵抗だといわれてる。
200万ボルトの電流が流されていた有刺鉄線。
中谷さん。
説明の仕方や語りかけなど、プロです。
収容施設。
このポプラは当時はまだ苗木だったらしい。
それがもう68年経って大きくなったと。
収容所内に展示されてる、ここに収容された人々の国々。
オスロ、パリ、ロシアなど、多くの国からユダヤ人が連行されてきた。
毒ガスで殺された人達を焼き、その骨を砕いたもの。
これはビルケナウ収容所のもの。
連日、多くの人々が劣悪な環境の列車に乗り連れてこられた。
途中で餓死する人もいた。
ここで(右に指差している)医者に「選別」され、労働力として使える人は左、使えない老人や子供、女性は右に連れて行かれた。右上の並んでいる多くの人は老人達。
ただ、これらの人達は今から体を洗うと言っていた。脱衣所にいくまで、同胞のユダヤ人に歓迎の音楽を演奏させ、新しい生活が待っているという雰囲気にしていたらしい。
脱衣所の次に、本物のシャワーの蛇口を取り付けた「シャワー室」に連れて行き、そこに毒ガスをを入れ殺していったと。毒ガスは殺虫剤に使われるものだったらしく、一瞬というよりも苦しんで亡くなっていった。
中谷さんの手があるのがビルケナウ。
線路を挟んで右側がアウシュビッツ。
ぶれてしまったけど、収容所の階段がこんなにすり減ってるのは、ここに来る来館者の数の多さを物語ってるんだと思う。
実際に使われた毒ガスの空き缶。
上がビルケナウ。
下がアウシュビッツ。
ビルケナウはアウシュビッツの約7倍の大きさ。
これはドイツ本国から収容所に送られた、何をいくら送れという指示書。
金なら何キロ、髪の毛を使った衣類なら何キロといった感じ。
ここで中谷さんが言ってた。
「こうやって数字だけを見て指示を出すのと、実際にそれ(リアルな現物)を見るのでは意識の差に大きな隔たりが生まれる」
上の数字と、実際のモノ(これはメガネ)、同じ事をしてても罪の意識は全く異なってくるんだと思う。
これも当時のドイツが考えた巧妙なシステムなんだろうね。
ユダヤ人だけでなく、身体・精神障がい者、などマイノリティーの人々も収容されていった。
かばんには名前を書かせ、後に返してもらえるという安心感を与えていた。
子供の服や人形。
靴
囚人の服。
生体実験された人達。
これは収容された人達がもってきた食器。
これらが使われる事は無かった。
囚人の識別/ランクをこの刻印で見分けるようにした。
収容された人々の食事。
ちゃんとカロリー計算をしていたが、それは人としてではなく労働力の確保といったモノ的な考えの元で行われていた。
これらの絵は、脱出できた人々が当時の収容所を描いたもの。
囚人の見張り役を同胞がし、その監視を太った職員がする。
これはドイツが降伏し、収容された人々が開放されたときのもの。
右側にいるドイツ兵は笑顔。
なぜか。
彼らに罪の意識はなかったから。
ただ単に、上の命令にしたがっていただけだから。
これもシステムなんだろね。
収容された女性達。
女性の髪は切り取られるのが普通だが、真ん中の女性はそのまま。
なぜか。
それは囚人内にスパイがいるという疑心を生ませ、団結しないようにするため。
多くの来館者。
ここは政治犯(といわれた)人達の裁判が行われたところ。
30秒で死刑がなんの証拠もなしに行われたと。
所長室かな。
銃殺刑の場所。
写真のドイツ国旗は、メルケル首相が公式訪問した際の物。
現職の首相による訪問は初めて。
この絞首刑台は、アウシュビッツの所長であるヘス所長の処刑が行われた場所。
アウシュビッツの所長というだけだと、とても冷酷なイメージだけど、実際は家族思いで職務に真面目に取り組む模範的な人間だったとのこと。
そのエソード。
巨大な軍事施設があれば、その近くには売春宿などがあるのが常らしいが、そこに通う看守などの部下のドイツ兵に、彼は「君たちは崇高な目的を達成する為に来ているのだから、そんなところには行かず職務を全うし、家族に顔を見せにいきなさい」と言ったこと。
また、軍事裁判で死刑の判決を受けた後、長男には「父さんみたいに上からの命令だけに従っていたらいつかは裏切られる。だから一生懸命に勉強して利用されない人間になりなさい」妻には「これから私の名字を名乗るといろいろ苦労するだろうから、改名しなさい」など、そんな人間だったらしい(中谷さんのいったことを覚えている限り書いているので、違っている可能性もあります。)
もちろんあとからいくらでも言えるので何とも言えないけど、誰か一人を悪者にし責任を押し付けるのは、あまりに短絡的で、簡単すぎる。
ここはアウシュビッツの毒ガス室。
この穴から毒ガスが散布された。
見学する来館者。
外観。
ここでアウシュビッツのガイドは終了。
続いてビルケナウまで行く。
無料のバスが出ている。
落ち着いた口調で知性の溢れる中谷さん。
バスに乗る事5分、ビルケナウ強制収容所に。
建物がほとんどないのは、敗戦時にドイツ軍が証拠隠滅のため破壊していったかららしい。
この線路に乗って、多くのユダヤ人が送られてきた。
内側から見る入り口付近。
こんな列車に、70人ほどが乗せられた。
ここが上で、医者が識別していた場所。
使えない、とされた人々はこの先の毒ガス室に運ばれていった。
体を洗う為だとだけ告げられて。
当時はここまで線路が延ばされているほど、おおくのユダヤ人が運ばれてきた。
壊された毒ガス室。
まずそこの地下室で脱衣し、
次にこの毒ガス室に入れられた。
このあたりは湿地。
だからすこし穴を掘れば水が出て池になる。
そこに焼却された人の骨を砕き、入れる。
しかしあまりに数が多いため、近くの川や草原に散布されることも多々あったらしい。
手間の慰霊碑は後に建てられたもの。
煙突があるところには、かつての収容所があった。
このような感じのものが。
このベッドを4人で使っていた。
学生の数が多い。
こういうことは、やっぱり頭の柔らかいうちに経験しておいたほうがいいと思う。
冬の風景。
−20℃の世界。
凍死する人も多かった。
手前は洗面台あったところ。
これはトイレ。
一人が一日に使用出来るのは2回?で、その時間はおよそ30秒。
これは寝床で、中央のものは暖炉。
これも食事のカロリー計算と同じで、あくまで労働力を失わないためのものだった。
こここで、ガイドは終了。
バスに乗り、再びアウシュビッツまで戻る。
バスは時間通りでも、満員になれば発車します。
ちなみにこのバスは、たぶん、ワーゲンが寄付したものだと思う。そう書いてあった気がする。
アウシュビッツにもどり、解散。
中谷さんのガイドは本当に良かった。
「ここに来る方はアウシュビッツに来れば何か分かるんじゃないかと、何か答えを期待してくる方が多いんです。だけどそうではなく、ここは考えることを提供する場なんです」
この言葉にハっとした。
自分も何かわかるんじゃないかと期待していたんだと思う。
あんま意識はしてなかったけど、そう思うってことは期待してたんだろうな。
なんか、余計わからなくなったというか、考える、行動をおこさなければいけないと思う。
たった数行で答えの出る、カンタンなものではないし、また日本とも関係のない事ではない。
当時、多くのノーベル賞を受賞し、市民も学問のレベルも世界トップであったドイツが、このようなことを行ってしまったこと、ヒトラーを民主主義のもと選んだこと。
何か日本の3.11のことにも繋がるし、このことは自分のなかで考えなければいけないと思う。
動こう。
帰りはまさかの市バス。クラクフまで14zl=450円ぐらい。
2時間ぐらいかな。
Oświęcim市内。
Oświęcim駅。
ここからも歩いて収容所までいける。
クラクフ近くの美術館かな。
バスの中では、後ろに座ったバックパッカーの人の話しがおもしろくて、聞いてたけどしまいには寝てた。
まぁ、知ったかは良くないと思った。笑
クラクフまで着き、昨日きたモールで昆虫展をやってた。
ヘラクレス!!か?
SHOさんと何か食べましょう、ということで、探しに探した挙句、まずはスイーツ。笑
桃のケーキ。
6zl=180円ぐらい。
shoさんのパンナコッタ。
これもおなじぐらい。
安杉内くん。
すてきな店内。
有名な大学らしい。
あれが隠し時計?らしい。
結局、昨日とおなじとこでピエロギ。
やっぱ美味しい。
中央広場のライオン。
かわいいぶちゃいく。
凛々しい。
どうしてこうなった。。。
灯りって素敵やん。
雰囲気出るね。
ヴァベル!!!
最後にSHOさんとパシャリ。
ええ人や。
大富豪バックパッカーとしてのジャンルを開拓してください。期待してます!笑
明日はスロヴァキアに移動のよていだけど、大丈夫か。。。
ルートも宿も確定してないぜ!
おや隅田川。